今朝、長野の雑誌「KURA」からの取材で、重要文化財になって町が管理して公開している旧三笠ホテルに行きました。取材の方は来客が多く写真を撮っただけで、話は別のところでやりました。このホテルは山本直純の祖父に当たる実業家の山本直良によって明治39年に開業したものであります。彼は有島武郎の妹の愛子を夫人として、有島家と結びついています。このホテルは万平ホテルと同様、リゾートホテルとして多くの有名人が投宿していたのですが、経営は当初より赤字が続き、昭和45年(1970)にホテルとしての幕を閉じています。つまり1960年代のリゾートから観光地に激変した軽井沢で生き延びていかれなかったのが万平ホテルとの違いなのかも知れません。避暑がなくなり、長期滞在がなくなった軽井沢の象徴だったのかも知れません。私はこのホテルにはほとんど行ったことがなく、泊まっていたひとたちとの交流もなく。縁の薄いホテルでした。
2009年7月18日土曜日
旧三笠ホテルでの取材
今朝、長野の雑誌「KURA」からの取材で、重要文化財になって町が管理して公開している旧三笠ホテルに行きました。取材の方は来客が多く写真を撮っただけで、話は別のところでやりました。このホテルは山本直純の祖父に当たる実業家の山本直良によって明治39年に開業したものであります。彼は有島武郎の妹の愛子を夫人として、有島家と結びついています。このホテルは万平ホテルと同様、リゾートホテルとして多くの有名人が投宿していたのですが、経営は当初より赤字が続き、昭和45年(1970)にホテルとしての幕を閉じています。つまり1960年代のリゾートから観光地に激変した軽井沢で生き延びていかれなかったのが万平ホテルとの違いなのかも知れません。避暑がなくなり、長期滞在がなくなった軽井沢の象徴だったのかも知れません。私はこのホテルにはほとんど行ったことがなく、泊まっていたひとたちとの交流もなく。縁の薄いホテルでした。
2009年7月5日日曜日
三笠の旧スイス公使館、「深山荘」に向かって道路沿いに住宅がならんでいます。軽井沢ナショナルトラストの中島会長によると戦前からこの辺りに住宅が建っていたそうです。それは貸別荘なのか、売り別荘なのかわかりませんが、あまり広くない敷地にこぢんまりした平屋の住宅が建っています。それを1945年の終戦の前に疎開したスイス公使館の武官などが借りて住んでいたというのです。この入り口のところを見るとドアの両側に小さな百合の紋章がついていたり、門灯も呼び鈴もヨーロッパ風のものです。中に入って見ることは出来ませんでしたが、いわゆる西洋館です。静かに少人数の家族が住むのに適しているようです。スイス人が国に引き揚げたあとはそのまま日本人に使われていたようですが、その方も亡くなり、現在は空き屋になっているそうです。別荘は世代交代となるとなかなか面倒で、このお宅もどうなるでしょうか。
2009年7月2日木曜日
戦前からの軽井沢
2009年6月28日日曜日
自然に還る
この3月に閉鎖されるまで、西武が手入れをしていたボーリング場前の土手ですが、手がはいらなくなるとこのような状態になります。これが見納めという感じで花が咲き誇っていますが、来年はこのままに放置されれば雑草でぼうぼうになります。ここは日当たりが良いので雑草がぐんぐんのびるでしょう。軽井沢の別荘地では所有者が本人や友達を呼んで雑草を刈るか、ちゃんと管理人がいて手入れをしているところはいいのですが、そうでなければ、あっという間に自然に還ります。近所にも雑草の中に朽ち果てた別荘が淋しく残っているところがところどころあります。天皇陛下が皇太子時代、軽井沢で楽しんでいた頃、遊びに来ていた家ではないかといわれる廃屋は雑草が2メートル近くも伸びています。キツツキの穴だらけのところもあります。植物と動物が自然に還る手伝いをしているのです。
2009年6月18日木曜日
失われた時を求めて、軽井沢・千ヶ滝の50年
私が軽井沢に最初に連れてこられたのは1942年より前だと思う。その時は赤ん坊だったので記憶がない。1945年の終戦の年の5月の東京大空襲の前に軽井沢に疎開したことは確かで、その時にはもう5才になっていて記憶がある。そして、8月の終戦のラジオ放送はそこで聞いた。祖母以下、家族親戚が家の前の家に行って聞いた。軽井沢のうちの別荘にはラジオがなかったが、その家には何故かラジオがあり、かなりの人数が集まっていた。ただ、父は東京の役所にいたはずで、そこにはいなかったと思う。この年に千ヶ滝からわれわれ母、弟の3人は沓掛に下りて別の親戚の別荘を借りて住んだが、この年の冬を越したかどうかがはっきりしない。その後、私の家族は館山、逗子と転々とし、東京の品川の役所の官舎に落着いたのは私が小学校3年になった年である。その年の夏からか次の年の夏からか、私は一人軽井沢に戦前からの習慣で避暑をする祖母の別荘に預けられることになった。つまりそれは1948年か49年からだったのではないかと思う。
2008年9月14日日曜日
最早、組織とは言えない単なる集団の国、日本

日本の社会は集団や組織でしか動かない、個人は個人として存在し得ないという。個人の自立した社会は存在し得ないのではないかと言う学者もいる。言い方は遠慮がちである。本当は個人になりたくない、さびいしい、こわい、というだけのことである。猿の生態を観察研究している学者ならその理由がわかるのかもしれない。ある孤島に猿が集団で暮らしている、集団だから外敵から身を守ることも出来る。猿より進化した類人猿の研究によると個としての彼らは助け合う能力は備えていないらしいので、猿はもちろん、群れていても個として助け合うのではなく、「集団」であることが外敵から守られるだけである。これまで、日本人の集団で協力し合う、つまり「集団」から「組織」としての強みが強調されてきたが、現在、社会で問題にされている事象を見ると、むしろ、「組織」から「集団」にもどる退行現象が見られる。つまり、自分の集団を守る、儲からなければ潰れてしまうから、どれほど悪いことでもやる、これは最早「組織」とは言えない。
2008年8月11日月曜日
戦後の社会は理想的?

今年も、あと4日で終戦記念日を迎えます。NHKのハイビジョンなどで戦争体験が語られます。私自身はものごころついたのが戦争の後ですから、戦争そのものの体験はほとんど語れません。しかし、戦後の復興期の記憶はかなりあります。多分この昭和20年(1945)の8月15日から昭和35年(1960)の間は、経済的には日本の歴史の中でも最も苦しい期間でしたが、社会的には最も優れた時代だったような気がしています。つまり、日本人社会に自由と自立と責任があった期間でした。たしかに、治安も悪く、社会が混乱しているようにみえましたが、皆、自分の生活を立て直そうと必死でしたし、良いことも悪いことも自分の責任でしかやりようがなかったのです。政府にいろいろ要求をしてはいましたが、だれも政府にそんなに力があるとも思っていませんでしたから、今のようにやたらに政府や行政を頼ったり、文句をいったり、訴えたりすることはありませんでした。そんな暇があったら、今日のご飯の事を考えることが先でした。親も子供の面倒さえろくろく見ることも出来ませんでした。子供も早くから自分で自分を守ることを覚えました。子供ですら良いことも悪いことも自分に責任があると思っていましたから、悪いことをすればひどく叱られ、殴られることも仕方がないと思っていました。親に言いつけること自体、友達からばかにされるもとでした。自分で始末のできない弱虫な奴ということです。池の柵がなくて落ちておぼれたらそれはその子の責任で、親のせいでもなければ、いわんや行政の責任など全く考えられませんでした。個人があり、地域には制度的なものがなくても実態として自治があったのです。皆、ある程度は助け合わなければ生きていけなかったからです。戦争で親を亡くした子供達がたくさんいて、親がなくてもなんとか頑張って生きていたのです。親がかわいがらなければ子供が育たない、親の愛情がなければ精神的に不安定な子ができるなど、まったくの俗説に過ぎません、社会が人間を育てるのであって、ある意味では戦後復興期のような健全な社会が正常な人間を育てるのです。
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