2010年8月30日月曜日
高原の日々(1)
加藤周一に「高原好日」という信濃毎日に連載していたものをまとめた本があります。彼が軽井沢で友情を温めた人たちとの交遊の話です。彼が取り上げている人たちはわれわれが誰でも知っている人たちがほとんどですから読んで面白いわけです。例えば彼が旧制一高からの友達である中村真一郎のことを書けば、われわれはなるほど、「高度の知識人の軽井沢での交遊」とは斯くなるものかと読めるわけです。しかし、私の交遊といえば、「それ誰」という友達で、その友達が軽井沢で特別なことでもしなければ読者には通じません。今日も夏の雲をながめながら、何をどのように書けばそれなりの話になるかを考えていました。さしずめ、子供の頃の軽井沢といっても、この千ヶ滝と呼ばれる別荘地の周辺から始めなければならないでしょう。この軽井沢・千ヶ滝、最初の記憶は1945年終戦の前後あたりでしょうか。私たちはここに疎開したのですが、その前にもう少し楽しかったかすかな記憶があります。私は3才だったはずです。4才の夏は私は聖路加病院の別館に預けられていたので、軽井沢に来ていないのではないかと思うからです。千ヶ滝が最も輝いていた時期です。その頃のことを覚えている人には会っていないので、正確なことはないにもわかりませんが、残っている記憶の断片から拾ってみましょう。
2010年8月23日月曜日
少しは秋の気配
2010年8月20日金曜日
蟄居
うちのある千ヶ滝地区は軽井沢から10キロ、中軽井沢から4キロあり、1960年代までは歩いて5分から10分ほどの範囲に八百屋、肉屋(牛乳)、酒屋(新聞も買えた)、米屋、パンやタバコも売っている雑貨屋があり、夏の間、ほとんど町に出ることもなく生活出来ました。そのため昆虫採集のため朝から出動する日を除けば、午前中は宿題をやり、午後はまわりの林や森の中で遊ぶ日課は比較的規則正しいものでした。今は買い物に町に出なければならず、一種、強迫観念にかられて町に出てブログ種を見つけたり、行きつけのカフェなどの場所に行かなければ、誰かに会わなければとついつい思って出かけるようになってしまいました。
昨日は天気もはっきりしないし、特に予定がないと思ってパソコンに向かって書き物をして調子が上がったと思っていたら、3時頃、ドカーンと大音響がして、飛び出してみたら車がガードレールに激突という事故、近所のペンションの人たちなどが皆出てきて、野次馬的にしゃべり合うことになりました。警察がなかなか来ないので、皆、引き上げるタイミングを失って1時間以上現場にいたので、結局、書き物のペースが乱れ、もどると書く気がなくなっていました。自分に蟄居を命じて、昔の夏の軽井沢のペースにいささかでも戻さないと仕事が楽しく進みません。なんとか町に出ないで脳の充実した日々を過ごさなければいけません。
2010年8月16日月曜日
トリノの写真を壁に
2010年8月13日金曜日
Torino発”Eataly"
イタリア、トリノから滞在中の4人に、ドイツからの建築家と日本の仲間をいれて総勢10人で夕食パーティ。
代官山にある“イータリー”(Eat と Italy)を掛けてこの名前のレストラン件、食材の店、バール(簡単な飲み食いの出来るイタリア、スペインにはそこらじゅうにあるスタンド)とが一隅に集まっている楽しいスペース。いろいろな言葉が行き交って、われわれだけが店の閉まるまでいました。もともとこのトリノの友達がトリノで連れて行ってくれて、この店が日本のお前のうちの近くに出来たらしいぞ、とのことでした。それが3年前の秋です。結構人気らしいのですが、イタリアでは高級な店だそうで、普通では買えない食品などが用意されているのです。この代官山近辺はお金持ちが多いのでそれなりの需要があり、高い生ハムなどが売れるのでしょう。うちから歩いて行けるのですが、とても買い物に行けるところではありません。
2010年8月8日日曜日
軽井沢高原文庫の会
2010年8月5日木曜日
大掃除
2010年8月2日月曜日
多忙な軽井沢
登録:
投稿 (Atom)