2010年11月30日火曜日

初冬の軽井沢


朝は零下になりますが、それでも晴れればぴりっとして気持ちは爽快です。この日は東京駅前の新丸ビルで軽井沢から進出してきたそば屋川上庵のSAWAMERAブランドで飲んでいて、コートを忘れてしまいました。軽井沢駅についてびっくり。信濃鉄道に飛び乗ってなんとか中軽井沢へ、またタクシーに飛び乗って身体が冷え切る前に家に着きました。翌日は朝から薪割り、日曜日でゆっくりしたかったのですが、このところ忙しくて、薪割りが出来ず、冬の準備が遅れていたのです。お昼過ぎまで掛かってかなり割りました。今日はまだ、腕が痛んでいます。この日の夕方に知り合いの先生が江戸原ペンションにやってきたので、彼を囲んで、旧軽のロータリーのところにある、これも川上庵の酢重正之ブランドで和食、ラングドックのメルローが良く合って、うまいこと。3時間以上話し込んで、江戸原ペンションのご主人に迎えに来て貰って無事帰宅。北斗七星の見える夜となりました。

2010年11月25日木曜日

おたるピロシキ


小樽駅に着いてそのまま港に向かって本通りを下っていきます。駅から港に停泊している大型フェリーがビルのように見えます。これはヘルシンキの港でも経験した景色です。この本通りを歩いていると、何と幟がはためいていて「おたるピロシキ」と書いてあります。ピロシキ研究家の松岡としてはここに寄って食べないわけには行きません。ここはロシアに近いし、ロシア人も来るのでさぞ本格的なピロシキが食べられるかと思いきや、店構えからしてパン屋のできそこないのような素人くさい店です。篭に盛られている「おたるピロシキ」を一つ買って外に出ました。この本通りは近年整備されひろびろとしてよいのですが、初冬の小樽で人が少ないと淋しいのです。食パンの耳を揚げパンにつけた、教育テレビに出てくる小錦のパジャマのような皮に中身ははるさめや挽肉ですが、中華ともつかず、和食の炒めもののようでもない、なんとも形容のし難い味付けのもので、ロシア人も驚くピロシキでした。いつも行く鮨屋で口直しをして、今年も小樽市民会議の作る来年の「おたるカレンダー」を知り合いのイタリアンレストランのトレノで買って札幌に戻りました。

2010年11月11日木曜日

軽井沢高原の日々(9)


終戦までの日々を綴った第1部の最後に、この軽井沢、千ヶ滝の別荘のいきさつを書いておかなければならない。これはもちろん私は直接知らない話で、ほとんど母から聞いた話である。それは大正の終わりか昭和の初めで、西武の創始、堤康次郎がこの地を購入して別荘地販売を始めてすぐの話である。堤康次郎の兄貴分でもあった永井柳太郎からすべてがスタートする。彼は大隈重信に認められオックスフォードで学んで早稲田大学の教授になり、その後、逓信大臣などを勤めるのだが、彼自身も日本の女性の参政権の問題に取り組んだが、彼の夫人の次代さんは女性の地位向上のために活動した女性だった。私の祖母は次代さんの女子学院時代の同級生で活動に協力していた。その縁で誘われて堤康次郎が始めた別荘を購入したものと思われる。私の記憶では活動家の女性の集まりに祖母に連れられて何度か行ったが、それが戦前か戦後かもはっきりしない。ある日の午後、こうした集まりに行っている時に近くの家が火事になったことがあった。しかし、その席の誰もが動こうともせずに話し続けていた。わたしもただその家の茅葺きの屋根が焼け落ちるのをぼーっと見ていただけだった。永井さんの家はうちから徒歩で30分程登ったグリーンホテルという、やはり西武が建てたホテルで加藤周一の小説「ある晴れた日に」の舞台にもなったホテルのそばだった。祖母や母に連れられて行ったことはあるが、次代さんや祖母が亡くなった後は付き合いが少なくなっていた。永井柳太郎、次代さんの息子が永井道雄だが、娘さんの息子が、つまり永井柳太郎、次代の孫,永井道雄の甥が一時衆議院議員ものなった本職は農学博士の鮫島宗明であり、彼と私は別の縁で友達になって三代にわたる付き合いになった。

2010年11月8日月曜日

久しぶりの早稲田祭


金曜日には三田に行って慶応アートセンターの先生と話し、土曜日は早稲田祭と早慶のキャンパスで過ごしました。慶応では研究棟の教授談話室、自分でお茶を入れるようになっています。この部屋は話しやすく私の好きなスペースです。テーマは美術館の再生とアートアーカイヴの展開でした。早稲田祭の方はこれも音楽同攻会の設立80年に向けてのアーカイブの作成の準備で早稲田祭を見学かたがたの下見です。こちらは慶応に完全に後れをとっていて、大学の対応はなく全く自力で少しずつ進めなければなりません。