2010年10月31日日曜日

秋雨つづく


昨日、台風をかわして軽井沢に着いてから雨がやみません。昨日大阪のホテルを朝5時半に出て軽井沢の家に着いたのが11時20分、それでも秋の黄金の景色が広がっています。今朝は10時前に出てヴィラデストでお昼を挟んで打ち合わせが済んで戻ったところ夕方の6時過ぎ。一日掛かりの大打合会となりました。なかなか難しい内容で、このブログにも書けない微妙な話ですが、とにかくこちら3人と玉さんとで対応するということで話はまとまりました。このお昼に出た豚の一切れがものすごい大きくしかもやわらかくジューシー。なんとこれは普通の豚においしい料理に使う食材の切れ端などを粉砕して餌に使っているというのです。これだけの大きな一切れどのくらいあるでしょうか。200はあるでしょうか。これまで残した人を見たことがないと玉さんは言います。

2010年10月27日水曜日

謎の西洋館


これは現在捜索中の案件で常磐松小学校を訪ねたときに、学校でもどうしてもわからないという戦前と思われる壮麗な西洋館の写真です。もちろん、渋谷から靑山にかけての一帯に存在していたと思われる建物です。これほど大きいものならわかる筈ですが、不思議です。このブログを読んで頂いている方のうちのどなたかに何かご存知のことがあれば教えて頂きたいと思います。
戦前の渋谷は東京の郊外といってもよいのですが、近くを通る靑山通りから明治通りをつなぐ八幡通も当時としてはかなりしっかりした通りで、現在よりも格式が高いように見える写真が残っています。とすると、この建物も八幡通に面していたのかも知れません。この小学校の近くには御料乳牛場があったりします。農大もあって元祖大根踊りは靑山でやったということです。

2010年10月25日月曜日

軽井沢高原の日々(8)


話を戦後の軽井沢の夏に進める前に、何故あのような昔、千ヶ滝に別荘をもつことになったのかを書いておく必要があるだろう。もちろん、私の生まれる前の話だから正確なことはわからない、祖母や母から聞いた話から類推したものである。昭和の初めの頃、先代の堤康次郎が軽井沢の西にある当時沓掛といった駅から北にある山林に目を着けて、そこを広く買収し別荘地を開発し始めて間もない頃である。その堤康次郎の公私共に兄貴分で後に親戚にもなった永井柳太郎がいた。この人は早大からオックスフォード大学を経て早大教授になり、後に代議士になって逓信大臣や鉄道大臣などを勤めた。彼は大正デモクラシーの一翼を担って婦人参政権の獲得などに力を尽くした。当然、堤康次郎は永井柳太郎に千ヶ滝の別荘地を世話したのであろう。そして、永井柳太郎の次代夫人と私の祖母は女子学院の同級生の仲であった。また、次代夫人は婦人運動の草分けの一人として日本婦人矯風会で活躍、祖母もその仲間になっていた。こうした関係があって、祖母は軽井沢で次代夫人と婦人問題を語り合う必要もあって別荘を購入したと思われる。ただし、祖母が自ら別荘地を買い、別荘を建てたのではなく、既に親戚が建てていたものを譲り受けたという話もあるので、その点ははっきりしない。ただ、祖母はこの関係の夫人達の集まりに頻繁に出かけ、ときどきは私もお伴させられた。そのことを次に話そう。

2010年10月19日火曜日

ボルシチ


滅多にない気分ですが、ビーフシチューが食べたくなったので、事務局長に相談すると、それならと渋谷東急プラザの9階にあるロシア料理「ロゴスキー」に連れて行ってくれました。ビーフシチューではなくロシアシチューというべきボルシチでした。それではとピロシキとボルシチのセット、普段より300円ほど高い1,360円、ブログネタにすれば安いよと笑いました。そういえば、ロシア料理店は新しい店が出来た話をききません。この店も1950年代からのやっている、つまりソ連時代からの店で、その頃から勤めているのではないかと思うおばさんウエイトレスが民族衣装を着て出てきてびっくり。ロシア娘ではなくロシアおばさんも1人いました。それでもお客がたくさん入っていてホッとしました。ボルシチは温かいウクライナ風の豆シチューにして正解でした。

2010年10月18日月曜日

高原の日々(7)さらば千ヶ滝


12月に入って寒さが厳しくなり、沓掛の家も所有者がやってきて使うことになったらしく、一旦千ヶ滝に戻った私達家族3人も追われるように山を下りることになった。もちろん私は小さくてそのいきさつは全くわからず、ただ、母にすがっていただけだった。この時期から母の妹の叔母とその連れ合いとの間がうまくいかなくなったようだ。叔母の連れ合いはどういうわけか、千ヶ滝に一緒に来ていて、そのまま一緒にいたので、祖母に取り入って主人顔をしていたようだ。父が東京で働いているので母は孤立して結局皆のいうなりになっていたようだ。その頃の最大の働き手は女中さんと呼ばれたお手伝いさんで、家事に馴れない母は女中さんの助けがなければ動けなかった。とにかく千ヶ滝は寒くていられず、ある日の夕方全員家を後にしてその夜は星野温泉に泊まることになった。凍りついた坂道をやっとの思いで星野にたどりついたのだった。日が直ぐに暮れて暗闇になり普通なら30分も掛からないはずなのにずいぶん時間が掛かったような気がするが、これも何もわからない子供の頃のことであった。そして翌日、国鉄、沓掛駅から満員の列車に乗ったのだった。蒸気機関車がホームに入ってくる姿が強く記憶に残っている。その時は蒸気機関車の前にも人が乗っていたようだ。それからどこに行くのか心細い気持ちだったことを思い出す。(写真は今は亡き星野温泉旅館)

2010年10月10日日曜日

旧朝吹山荘移築展


朝吹登水子が亡くなって軽井沢にあったヴォーリズ建築の建物が軽井沢タリアセンに寄付されて元あった旧軽井沢の北の別荘地から塩沢湖畔に移されて1年、今回、朝吹家の歴史と移築の経緯を写真パネルにした記念展が開かれた。この別荘は別名睡鳩荘という名で呼ばれ、ある時期には軽井沢の象徴のような避暑生活が展開された。往事を忍ぶこともなかなか難しいが、昨日は監修に当たった、ヴォーリズ研究の第一人者の大阪芸大の山形政昭教授が最終チェックにタリアセンを訪れた。私も同行して、ヴォーリズ建築の時代考証や保存問題を議論した。写真は睡鳩荘の模型である。

2010年10月8日金曜日

高原の日々(6)つかの間の兜山


リックサックにわずかな食糧を持って来てくれた父が当時の沓掛(中軽井沢)から東京に戻るときデッキから手を振るのが見えた信越線の線路に沿った国道わき、私は母に手を引かれてここから父に向かって手を振った。この電線はなく蒸気機関車に引かれた暗いアメ色の客車が通り過ぎて行く。ときには子供が手を振っているのを見つけた機関士が汽笛を鳴らしてくれた。どういうわけか千ヶ滝の家から気がついたときには沓掛に近い、現在の軽井沢病院の奥にある兜山別荘地にある小さな家に住むことになった。それは誰か親戚の別荘で、祖母や叔母たちと一緒にいるのを嫌った父のせいか、千ヶ滝に祖母が収容する麻布のご近所のひとたちが増えたからかも知れない。母と私と未だ乳飲み子だった弟と3人だった。戦争が終わり高原の早い秋がやってきた。8月が後半なり、ほとんど戦争が終わったとたんに秋になったという感じだった。子供の私にとって人生でもっとも静かな日々だったような気がする。買い出しというか、赤ん坊の弟のミルクとなにがしかの食糧を求めて母は毎日朝から2里の道を歩いて旧軽井沢の町の方へ出かけていった。ミルクは仲人だった東大の獣医学の先生の関係で山羊を飼う人がいて、その人のところへ山羊のお乳をもらいに行っていたらしい。私は弟と留守番だったが弟は異常なほど静かにしていてくれて、ほとんど泣いたりさわいだりしなかった。私は何時間も何時間も寝ている弟と部屋の中で一人で遊んでいた。小学校に行くまで親が面倒を見てくれたことがほとんどなかった。冑山は秋にはすべてが色づいて、ある日3人で林の中を散歩して、母は赤く色づいた木の葉を集めていると、地元のおばさんらしい人に、それはウルシの葉だからかぶれますよと注意され、あわてて捨てたことがあった。また、ある夜、この家の持ち主らしい男の人たちがやってきて、白いご飯にバターを乗せて食べさせてくれた。しかし、これがこの家にいた最後の日だった。もう12月で冬になっていたのだ。私たちは千ヶ滝の家に戻ったが、とても寒くていられず、ここも引き揚げることになった。

2010年10月4日月曜日

パブリック・フット・パス


軽井沢でパブリック・フット・パスを作ろうという試みが筑波大の先生のイニシアチブで行われ、その調査のために半日、歩きました。
イギリスでは人の通行に便利なために私道などを公共で使えるようにしていて、法的にも整備されているのですが、日本では何もありません。林の中の道を徒歩で通行するためにルートを確保するという考えですが、なかなか簡単ではありません。
とにかく、日本では「パブリック」という概念が明治に国家や行政のものとして「公」にされてしまい、そのため戦後、反動で逆に「私」の権利確保が行き過ぎパブリックを作りにくい状況になっています。パブリック・フット・パスはその意味で日本社会に一石を投じる者だと思います。むしろ、江戸時代の入会権のようなもののほうがパブリックの概念に近いと思いますので、その辺も研究課題です。

2010年10月1日金曜日

高原の日々(5)終戦の日


終戦の日、もちろん子供の私にはわけもわからず、隣の家に連れて行かれた。これまでその家にいったことはなかった。畳の部屋は明るくなく、何人かの大人が向こうを向いて座っていた。私も同じ方向に向かって座るとしばらくして、シャーシャーという音が前の方から聞こえてきた。この部屋の前にタンスがあってその上にラジオが乗っているのがわかった。やがで、シャーシャーという音にかき消されて良く聞こえないが甲高い声がラジオから流れてきた。しかし、何を言っているのかは私にわかるはずもなかった。そして皆立ち上がり無言のままその部屋を出て外に向かった。その時は祖母が私の手を引いていたようだった。道に出ると祖母は空を見上げた。私も一緒に空を見上げた。その時に祖母が何か言ったか、言わなかったかもわからない。ずっと後になって空を見上げたのはもうB29が飛んでくることはないと、これで安心して空を眺めることが出来ると言ったとか、話は作られていったような気がする。ただ、この昭和20年8月15日は軽井沢も快晴で空がきれいだったことはなんとなく記憶に残っている。これは加藤周一が「ある晴れた日に」である晴れた日に戦争が始まり、ある晴れた日に戦争が終わったと書いたように、彼は終戦の日を軽井沢・追分で迎えたのだ。それから千ヶ滝の祖母の家で何がどうなったのか、なにも覚えていない。記憶はそこから急に山を下り沓掛(中軽井沢)の知り合いの別荘に移っていく。