2009年7月25日土曜日

軽井沢と自転車

星野裕一さんに電動アシスト自転車を買うという話をしたら、あげるから買うのはちょっと待ってと言われました。昨日の午後、1台持ってきてくれたうえに、もう1台頂ける方がおられるからと千ヶ滝西区のお宅に一緒に行ってくれ、もう一台を運んできました。今朝、近くの郵便局に行き、帰りの急坂で試してみました。嬉しいほど登れました。坂の途中で神宮の友達の原さんから電話があり、一旦下りて、また登ることになりましたが、これもOKでした。軽井沢では自転車生活がエコライフで昔からの伝統でした。千ヶ滝別荘地は坂が多くてダメでしたが、旧軽井沢や南原など平坦な別荘地では便利でした。万平ホテルに泊まっていたジョン・レノンもよく自転車で買い物をしていたそうです。本物を見ることは出来ませんでしたが、彼は軽井沢が大好きだったようです。

2009年7月23日木曜日

雨にけぶる軽井沢

朝7時頃に駅に近い矢ヶ崎公園にはいろいろな現象がでます。もちろん、犬を連れて散歩する人はも様々です。今日は学校に行く前の中学生が橋から池をしばらく眺めて登校していきました。去年は気持ちの悪いほど大きなサギが欄干に止まって1時間以上飛び立たないで周囲を眺めていました。数の多い鴨は朝から晩まで団体行動と個別行動の繰り返しです。私は新幹線とかバスの待ち合わせの時間をここで過ごすのですが、天気が良ければ橋から浅間山も見えて
軽井沢の中でもせいせいした感じのする場所です。

2009年7月20日月曜日

いつも見送り


















軽井沢へ来る友達を見送るのが恒例です。千ヶ滝のバス停、軽井沢駅、そして今日は中軽井沢駅でした。こちらが一夏を過ごし、友達が外国から来て帰るなどといえば少しは感傷的になりましたが、いまはこちらも週末中心となり、外国の友達も二度、三度と来るようになって、あっさりと別れ、あっさりと出迎えるという感じになりました。それは良いような悪いような・・・・。彼女を見送ってから自転車に乗って軽井沢タリアセンに行って軽井沢ナショナルトラストの会報を貰ってきました。明日の吉武ゼミで配布するためです。タリアセンも忙しそうで、子ウサギがうろうろと走りまわっていました。帰途、タリアセンの北口の方にまわったところ、忽然とガレットとクレープを食べさせるというレストランというかカフェが出来ていました。話の種になるので、とにかく寄って昼食のかわりに食べてみました。信州はそばの産地ですから、考えてみればガレットは悪くないのではないかと思います。

2009年7月19日日曜日

やはり千ヶ滝

われわれの別荘番号の原点はこの千ヶ滝です。右側の雌滝は今や水量が減って、千のしずくが流れ落ちるという風景は見られなくなり、本当は千ヶ滝とは言えないのですが、われわれ昔から来ているものは心の原点になるところです。いずれ、セピア色の千ヶ滝の回想で書きますが、今回も泊まりに来たドイツ娘のカテリンを連れて行きました。彼女を軽井沢に泊めるのは2度目ですが、料理を手伝ってくれたり、日本人の娘さん達より本当に楽ですね。どうしてだかわかりませんが、これまでのところ外国人の友達は気分良く何度でも泊まってくれます。日本の方にはこのような山小屋のようなプライバシー度が低いところは良くないのかも知れません。

2009年7月18日土曜日

旧三笠ホテルでの取材

今朝、長野の雑誌「KURA」からの取材で、重要文化財になって町が管理して公開している旧三笠ホテルに行きました。取材の方は来客が多く写真を撮っただけで、話は別のところでやりました。このホテルは山本直純の祖父に当たる実業家の山本直良によって明治39年に開業したものであります。彼は有島武郎の妹の愛子を夫人として、有島家と結びついています。このホテルは万平ホテルと同様、リゾートホテルとして多くの有名人が投宿していたのですが、経営は当初より赤字が続き、昭和45年(1970)にホテルとしての幕を閉じています。つまり1960年代のリゾートから観光地に激変した軽井沢で生き延びていかれなかったのが万平ホテルとの違いなのかも知れません。避暑がなくなり、長期滞在がなくなった軽井沢の象徴だったのかも知れません。私はこのホテルにはほとんど行ったことがなく、泊まっていたひとたちとの交流もなく。縁の薄いホテルでした。

2009年7月5日日曜日

三笠の旧スイス公使館、「深山荘」に向かって道路沿いに住宅がならんでいます。軽井沢ナショナルトラストの中島会長によると戦前からこの辺りに住宅が建っていたそうです。それは貸別荘なのか、売り別荘なのかわかりませんが、あまり広くない敷地にこぢんまりした平屋の住宅が建っています。それを1945年の終戦の前に疎開したスイス公使館の武官などが借りて住んでいたというのです。この入り口のところを見るとドアの両側に小さな百合の紋章がついていたり、門灯も呼び鈴もヨーロッパ風のものです。中に入って見ることは出来ませんでしたが、いわゆる西洋館です。静かに少人数の家族が住むのに適しているようです。スイス人が国に引き揚げたあとはそのまま日本人に使われていたようですが、その方も亡くなり、現在は空き屋になっているそうです。別荘は世代交代となるとなかなか面倒で、このお宅もどうなるでしょうか。

2009年7月2日木曜日

戦前からの軽井沢


軽井沢の別荘で格式のあるもの、あるいはいわれのあるものは戦争前に建てられたものです。場所も旧軽井沢にあった旧草軽電鉄の駅を中心から近くにあります。今のロータリーです。この看板は苔が着いて読みにくいのですが「近衛山荘」となっています。近衛文麿の別荘だったところです。終戦の年、この場所でこの元首相は覚悟をきめるために冬の寒さにもかかわらず数日を過ごしたのです。われわれ子どもの時に軽井沢で過ごしていたものは、彼が最後にここにやって来た気持ちが
痛いほどわかります。そして東京に戻って自殺したのです。