2010年9月25日土曜日

カラ松のデザイン


脇田美術館で「木のデザイン」落葉松からのメッセージと題する展覧会がオープン、陶芸家の
友達夫妻に呼ばれて出席。久しぶりに晴れたが庭のパーティは日陰が寒いという状態。芸大教授の黒川哲郎氏のディレクションということで、彼の手下や同僚などが中心の展示会。落葉松の利用は北海道でも早くからやっていたが、同じような家具が出ていた。木目のデザイン的活用など面白い作品も見られたが、クラフトと芸術の違いはなかなか理解しにくい。とっくの昔に落葉松の活用についてはこの問題が解決されて、バウハウスのようにデザインとして世にでていかなければ仕方がないという気がする。

2010年9月22日水曜日

高原の日々(4)終戦まで


とにかく、ここに来ると空襲の恐怖はなくなり、皆ほっとしていた。東京では灯火管制があったが、千ヶ滝では部屋の電灯の傘に黒い布をかけることもなく、サイレンの音がすることもなく、夜はまったくシーンとしていた。今、思っても夜のあれほどの静けさは二度とないだろう。あまり明るくない裸電球の下で寝る前に祖母も母も私も本を読んだ。そのページをめくる音だけが、その静けさを破るのだった。何年か後には蛾の羽音がしたり、虫の音が耳につくようになったが、あの時には全く音がしなかった。そのときに読んだ本のタイトルを思い出せないが、世界の名作だったことは間違いない。本が好きになったのはその時からである。乳飲み子だった弟は隣の部屋の籐のベッドに寝かされていたが、ぐずることもなくいつも静かに寝ていて皆から静かな赤ん坊ですねと言われていた。ただ、一度だけそれこそ火のつくように泣き出したことがあった。皆、驚いてベッドの部屋に駆け寄ったところ、弟は血まみれになって泣いていた。なんと、ネズミが手の指をかじったのだった。多分、私も驚いて泣いただろうと思う。それから何が起こったのかは全くわからない。医者など近くにいるわけもなく、戦争中の田舎で病院に行くことが出来るわけもなく、多分、看護婦の心得があった母が消毒をし、血を止めてなんとか急場をしのいだのだろう。ネズミが媒介する病気は潜伏期間が長いものがあるで、その時は非常に心配したらしい。それを除けば皆焼け出された身の上で、皆がなにかと顔をつき合わせて話をしていたのを覚えている。雰囲気は人が多かったこともあって親密なものであったようだ。本当は毎日の食事をどう確保するか大変だったのだろうが、子供の私はおだやかに過ごしあの終戦の日を迎えた。

2010年9月19日日曜日

お城のような


以前、営林署の浅間山荘(事件のあった浅間山荘とは違います)があったところが売られて、新しい買い主がこのような別荘を建てました。ヨーロッパのお城のような風情です。場所が特殊な国有林の前ということもあって、思ったより違和感はありませんが、軽井沢でしょうかという感じはします。この暑かった夏がやっと終わりました。毎夏会うかたで姿をお見かけしなかった方が何人かいます。淋しい限りです。逆にこの数年お見かけしなかった方が久しぶりに来られて嬉しかったこともありました。避暑という習慣がなくなって、週末に来るという場合が多く、すれ違って会わないことも多くなり残念です。

2010年9月13日月曜日

高原の日々(3)


おそらく1943年の千ヶ滝別荘地のまだかすかに平和が残っていて、祖母が資産家の山室家の当主で豊かな軽井沢の避暑生活を送っていて、西武千ヶ滝別荘地も千ヶ滝文化村として当時のインテリ層を相手に理想郷をつくりつつあった。残念ながら私にはこの年の記憶は前回書いた以上のものはない。その後の記憶は1945年春の疎開になる。この年の3月10日の大空襲は麻布の家にいて、私は防空ズキンを被って2回の窓から真っ赤になった空をながめていた。なにせこの家の前は麻布連隊、歩兵第三連隊の駐屯地であった。その後、防衛庁になり現在は東京ミッドタウンになっているところだ。この空襲では風向きのせいか翌日の朝まで燃えかすや灰が降ってきたが助かった。しかし、時間の問題だということで、祖母だけが残ってあとの家族は軽井沢に疎開することになった。そして5月20日の東京大空襲によって麻布の家は灰燼に帰し、祖母とお手伝いさんが軽井沢にやってきた。お手伝いさんが背中におおきなリュックをしょって、「ついに、焼け出されました」と言って千ヶ滝の家の庭に現れた姿をはっきりと覚えている。「朝になって防空壕から出たらお家がすっかり焼けていました。家財一式、なにもかにも焼けました、あのドイツから直接運んで貰ったピアノが鉄線だけになっていました。焼け残った食器、茶碗や皿をかつげるだけかついできました」祖母は後から麻布の近所だった豆腐屋やだれかを連れてきたようだった。彼らもしばらく同居することになった。そこでこの別荘も一杯になったため、母と私と弟と3人は沓掛(今の中軽井沢)に誰かの別荘に移ることになった。父は農林省の役人で食糧の担当だったため、兵隊にもとられず、役所に詰めっきりで、終戦後になるまで軽井沢には現れなかった。 

2010年9月8日水曜日

おじいちゃん・二代目星野嘉助


いま人気の星野リゾート社長、星野佳路と女優の矢代朝子の対談が軽井沢高原文庫の中庭で開かれた。最近は経営の話でテレビなどのマスコミに出現するのがほとんどで、おじいちゃんについて話すというので、集まった人数は思ったより少ないようでした。しかし、幼なじみが対談すると一般の印象と違って彼の良い面が出て、成功している経営の底辺にあるものがわかるものです。貴重な話が多く、様々な面で参考になりました。もっとも、軽井沢の将来については、後で彼らと6人だけで打ち上げをやったときに更に有益な話が聞けました。それについては少しこなしてから書きましょう。Light from Hayama のブログの方で書きましょうか。

2010年9月3日金曜日

高原の日々(2)


軽井沢の最初の記憶が何かがはっきりしない。今は中軽井沢といっている沓掛駅前のバスの待合所、バスがたくさん停まっていてごったがえしていたのを覚えている、戦争前の国鉄信越線沓掛駅の最盛期だった。駅前広場に立派なバスの待合所があり、軽井沢高原バス待合所と大きく書かれていたように思う。そこにバスの関係者も、どのお客にも馴染みのしっかりした体格のおばさんがいて、バスの切符も彼女から買うようになっていた、と思う。戦争が終わってにぎわった沓掛の駅前もすっかりさびれても、この待合所とおばさんが残っていて、しばらくいたと思うので、記憶は戦前、戦後とダブっているかも知れない。戦前の夏には祖母と母は一緒に来たことは確かだろうが、私自身は誰に連れられて来たかは定かではない。その頃だけは私も本当にお坊ちゃんで私の世話をしてくれるのは母ではなく、お手伝いさんだったし、それも何人もいて、名前も覚えるような状況ではなかった。戦争でお手伝いさんのほとんどが故郷に帰っていなくなり、戦後まで祖母の家に一人残ってくれた政恵さんという人だけを覚えている。戦前のもう一つ確実な記憶は大きな木造の、しかも今で言うログハウスだが、丸太の皮が剝かれていないまま使われていた「百貨店」があった。そこに連れて行って貰って花火だか何かを買ってもらった。戦後に建物の残骸は残っていたが、いつの間にかなくなっていた。これはもしかすると西武百貨店の始まりの頃だったのかも知れない。その場所はうちの別荘から千ヶ滝通りを渡ったすぐのところにあった。つまり、うちの別荘はこの千ヶ滝別荘地の真ん中で、いまよりずっと便利だった。西武の先代の堤康次郎が精魂込めて開発したモダンな別荘地だったのだ。

2010年9月1日水曜日

大賀ホール


右側が夕方の大賀ホールです。なかなか雰囲気があります。
これまで大賀ホールが出来てから何度もコンサートを聴きに行きましたが、聴衆が10人もいなかったのはさすがに初めてでした。時間前にホールに入ると男の人がピアノをさわっています。
多分、調律だろうと思って見ていました。この時点で客と思われる人は3人、しばらくすると5,6人まとまって入ってきましたので、これから人が来るのだろうと思っていると、その人たちは客席に一旦腰を下ろして、すぐに立ち上がりホールの後ろをまわって、入ってきたドアから出て行ってしまいました。このような5,6人のまとまりが公演中も入ったり出たり2回ほどありました。どうやらホールの見学のようです。こんなことを許すのか。演奏はなかなか、ヤマハのピアノがこれほど華やかな音を出すとは。終演後、あまり気の毒なので楽屋へ行ってなぐさめました。でも、彼はこのホールでこの楽器で満足していました。