2010年9月3日金曜日

高原の日々(2)


軽井沢の最初の記憶が何かがはっきりしない。今は中軽井沢といっている沓掛駅前のバスの待合所、バスがたくさん停まっていてごったがえしていたのを覚えている、戦争前の国鉄信越線沓掛駅の最盛期だった。駅前広場に立派なバスの待合所があり、軽井沢高原バス待合所と大きく書かれていたように思う。そこにバスの関係者も、どのお客にも馴染みのしっかりした体格のおばさんがいて、バスの切符も彼女から買うようになっていた、と思う。戦争が終わってにぎわった沓掛の駅前もすっかりさびれても、この待合所とおばさんが残っていて、しばらくいたと思うので、記憶は戦前、戦後とダブっているかも知れない。戦前の夏には祖母と母は一緒に来たことは確かだろうが、私自身は誰に連れられて来たかは定かではない。その頃だけは私も本当にお坊ちゃんで私の世話をしてくれるのは母ではなく、お手伝いさんだったし、それも何人もいて、名前も覚えるような状況ではなかった。戦争でお手伝いさんのほとんどが故郷に帰っていなくなり、戦後まで祖母の家に一人残ってくれた政恵さんという人だけを覚えている。戦前のもう一つ確実な記憶は大きな木造の、しかも今で言うログハウスだが、丸太の皮が剝かれていないまま使われていた「百貨店」があった。そこに連れて行って貰って花火だか何かを買ってもらった。戦後に建物の残骸は残っていたが、いつの間にかなくなっていた。これはもしかすると西武百貨店の始まりの頃だったのかも知れない。その場所はうちの別荘から千ヶ滝通りを渡ったすぐのところにあった。つまり、うちの別荘はこの千ヶ滝別荘地の真ん中で、いまよりずっと便利だった。西武の先代の堤康次郎が精魂込めて開発したモダンな別荘地だったのだ。

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