2010年9月13日月曜日

高原の日々(3)


おそらく1943年の千ヶ滝別荘地のまだかすかに平和が残っていて、祖母が資産家の山室家の当主で豊かな軽井沢の避暑生活を送っていて、西武千ヶ滝別荘地も千ヶ滝文化村として当時のインテリ層を相手に理想郷をつくりつつあった。残念ながら私にはこの年の記憶は前回書いた以上のものはない。その後の記憶は1945年春の疎開になる。この年の3月10日の大空襲は麻布の家にいて、私は防空ズキンを被って2回の窓から真っ赤になった空をながめていた。なにせこの家の前は麻布連隊、歩兵第三連隊の駐屯地であった。その後、防衛庁になり現在は東京ミッドタウンになっているところだ。この空襲では風向きのせいか翌日の朝まで燃えかすや灰が降ってきたが助かった。しかし、時間の問題だということで、祖母だけが残ってあとの家族は軽井沢に疎開することになった。そして5月20日の東京大空襲によって麻布の家は灰燼に帰し、祖母とお手伝いさんが軽井沢にやってきた。お手伝いさんが背中におおきなリュックをしょって、「ついに、焼け出されました」と言って千ヶ滝の家の庭に現れた姿をはっきりと覚えている。「朝になって防空壕から出たらお家がすっかり焼けていました。家財一式、なにもかにも焼けました、あのドイツから直接運んで貰ったピアノが鉄線だけになっていました。焼け残った食器、茶碗や皿をかつげるだけかついできました」祖母は後から麻布の近所だった豆腐屋やだれかを連れてきたようだった。彼らもしばらく同居することになった。そこでこの別荘も一杯になったため、母と私と弟と3人は沓掛(今の中軽井沢)に誰かの別荘に移ることになった。父は農林省の役人で食糧の担当だったため、兵隊にもとられず、役所に詰めっきりで、終戦後になるまで軽井沢には現れなかった。 

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