2010年12月30日木曜日

オオカミの護符


第110回吉武ゼミは「オオカミの護符」というドキュメンタリー映画を見ました。オオカミ信仰は現在も御嶽山の山麓から広がった地域に今も生きています。それは地域のコミュニティが残っていることを示すものです。ただ、画面に登場する人達は高齢者が多く、果たしてこのコミュニティの講の仕組みがいつまで続いていくのかは疑問です。農業に依存する山村の生活がこの社会的な仕組みを必要としているのですから、それがなくなればコミュニティは崩壊していくことになります。最初に竹の子を作る農家が出てきますが、実に大変な労力を必要とします。このように手のかかる竹の子の生産がいつまでもつづけられるとは思えません。生きるために必要だから講があり、コミュニティがあり、オオカミ信仰があります。生きるために
必要がなければ、コミュニティの基盤は極めて脆弱なものです。

2010年12月24日金曜日

ホワイトクリスマス


ヴィラデストワイナリーのクリスマス・サパーを玉村夫妻とゆっくり楽しみ、外に出ると満月が出ていましたが、夜中に雪が降り朝は一面に雪景色になりました。ホワイトクリスマスです。戻ってメールをみると、なつかしいウイーンの友達、「ノープロブレムおじさん」からクリスマスメッセージが入っていました。何時ウイーンで会えるのか、と。今年はウイーンも雪が一杯でしょうか。普通は今朝の軽井沢のような薄い雪が街を覆っていて、シュテファン寺院の屋根もあの特徴のある模様が雪に見え隠れしているという状況ですが、今年はどうでしょう。今、雪がやみ日差しが出てきました。今日の軽井沢の最高気温は0℃です。

2010年12月21日火曜日

Agora手渡し会


今年も無事Agoraが出来上がり、クラスの仲間に渡す会が開かれた。編集者の1人が自宅を開放してくれて今回は8人ほど集まった。文京区の六義園のはす向かいという閑静な住宅街にある。少し遅れて着いたら、仲間の1人がかっぽれを踊るという趣向になっていた。派手な浴衣をきていなせな格好でおはやしに合わせて踊る。なんでも、かっぽれは29種類もあって、やってみると奥が深いらしい。男形、女形と2曲踊ってくれた。そういえば、今年亡くなったわれわれの先生と先生が教えていた東邦大学医学部の仲間で幇間を呼んでかっぽれを見ることになっていたのだが、遂にそのチャンスを失った。
踊りを堪能した後はビール、ワインを空けてわいわい話しているうちに次号のテーマが2つ決まった。ひとつはお客のクレーム処理について、デパートでクレーム処理の部署にいたかっぽれ氏、消費者センターにいた女史、新聞社の整理部で読者の問いあわせに答えていた読売の記者の3人が書くことに。もう一つは「自分はどうやってたばこをやめたか」という話。書きやすいテーマで、それがいいと編集長も言ってくれた。

2010年12月13日月曜日

荷台


中軽井沢の駅前にあるそば屋「かぎもとや」は観光客が寄る店で、われわれはそのとなりのとなりの「あ・ら・がーる」フランス語の「駅前」というカレー屋さんに行きます。何年もかわらずしっかりした味のカレーを出してくれます。長い柄のほうきやなにやらを抱えて店を出ると目の前に江戸原ペンションのお兄さんが軽トラで通りかかりました。「家に戻るんだけど」と奥さんは助手席に私は荷物を抑える役で荷台に。町長選もあと一ヶ月後に迫り、あれやこれや慌ただしい師走です。戻って又、薪割をし、夜はまた町に出て東京から来られた知り合いの先生ご夫妻と食事です。

2010年12月10日金曜日

雪道と自転車


今日は快晴、昨日、一昨日と降った雪もどんどん溶けています。この状態でなら自転車でも走れます。徒歩より楽に動けます。しかし、少しでも雪が凍ると滑るので危ないのです。午後3時を過ぎると早くも凍結が始まり、タイヤが氷の面に乗るとハンドルがとられてしまいます。いつも浅間山を撮る場所へ坂を下りていきます。幸い滑るところはなく、浅間山もきれいに撮れました。まだ完全に雪景色にはなっていません。さて、軽井沢町も来月は町長選、応援する知人の事務所によって後援会のパンフレットなどを貰って来ました。

2010年12月7日火曜日

国連大学前


東京の週末で靑山通りに出ると国連大学前に人が集まっていました。近寄ってみるとイランの政治的抑圧に反対して集まっている人達でした。この場所ではこうしたデモの集まりがよくあります。ミヤンマー、イスラエル、日本人には事情がわからないアフリカの国のこともあります。祖国を離れて日本に暮らしている人達やその立場を応援する人達が事情をアピールしています。この場所は様々な国の人が気軽に来られる東京でも珍しい場所です。

2010年12月5日日曜日

とうとう売りに出る


うちから歩いて5分ほどのところにある1999年に94才かで亡くなった洋画家の三岸節子さんの別荘が遂に売りに出ました。彼女が亡くなってから使われた形跡がほとんどなく、保存される見込みはないと見ていましたがやはり、というか遂に売却ということになったようです。ご家族ももう高齢でしょうし、多分関西の方にお住まいとか聞いていましたから、軽井沢に来られることは難しいことだったと思います。晩年も精力的に制作されいて、当時、話題になってテレビでも放映されたことも何度かありました。この別荘のたてものはなかなかきれいでもしかするとあめりか屋建築ではないかとうわさされていました。軽井沢のページから三岸節子が消えていくのは淋しいことです。