2010年10月8日金曜日

高原の日々(6)つかの間の兜山


リックサックにわずかな食糧を持って来てくれた父が当時の沓掛(中軽井沢)から東京に戻るときデッキから手を振るのが見えた信越線の線路に沿った国道わき、私は母に手を引かれてここから父に向かって手を振った。この電線はなく蒸気機関車に引かれた暗いアメ色の客車が通り過ぎて行く。ときには子供が手を振っているのを見つけた機関士が汽笛を鳴らしてくれた。どういうわけか千ヶ滝の家から気がついたときには沓掛に近い、現在の軽井沢病院の奥にある兜山別荘地にある小さな家に住むことになった。それは誰か親戚の別荘で、祖母や叔母たちと一緒にいるのを嫌った父のせいか、千ヶ滝に祖母が収容する麻布のご近所のひとたちが増えたからかも知れない。母と私と未だ乳飲み子だった弟と3人だった。戦争が終わり高原の早い秋がやってきた。8月が後半なり、ほとんど戦争が終わったとたんに秋になったという感じだった。子供の私にとって人生でもっとも静かな日々だったような気がする。買い出しというか、赤ん坊の弟のミルクとなにがしかの食糧を求めて母は毎日朝から2里の道を歩いて旧軽井沢の町の方へ出かけていった。ミルクは仲人だった東大の獣医学の先生の関係で山羊を飼う人がいて、その人のところへ山羊のお乳をもらいに行っていたらしい。私は弟と留守番だったが弟は異常なほど静かにしていてくれて、ほとんど泣いたりさわいだりしなかった。私は何時間も何時間も寝ている弟と部屋の中で一人で遊んでいた。小学校に行くまで親が面倒を見てくれたことがほとんどなかった。冑山は秋にはすべてが色づいて、ある日3人で林の中を散歩して、母は赤く色づいた木の葉を集めていると、地元のおばさんらしい人に、それはウルシの葉だからかぶれますよと注意され、あわてて捨てたことがあった。また、ある夜、この家の持ち主らしい男の人たちがやってきて、白いご飯にバターを乗せて食べさせてくれた。しかし、これがこの家にいた最後の日だった。もう12月で冬になっていたのだ。私たちは千ヶ滝の家に戻ったが、とても寒くていられず、ここも引き揚げることになった。

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