2012年8月31日金曜日
玉さんの睡眠用椅子
玉さんの家に珍し椅子がありました。脚を上げて使う椅子です。腕を乗せるアームから脚を乗せるアームが連続してついているのです。玉さんの説明によるとタイの骨董品店に置いてあったものだそうです。おばあさんが腰掛けていたものですが、おばあさんは勘弁して貰って椅子だけ買ってきたようです。
さすが、タイですね。暑い日差しを避けて、日影で脚を伸ばして腰掛けると甘い熱帯の植物の香りに包まれて、いつの間にかうとうとと桃源郷に誘われるという豪華な椅子というわけです。
私も試してみましたが、玉さんが今晩はここで寝てくれていいよ、と言ってくれないので、とりあえず数秒で、夢をみるには至りませんでした。
2012年8月30日木曜日
玉さん夫妻山羊を飼う
8月半ばにヴィラデストに行ったときに玉さんから山羊を飼ったという話を聞いていましたが、一昨日行ったところ
その山羊に出合いました。これで、生後5ヶ月弱でまだまだ大きくなるそうです。見たところはなかなか可愛いという感じで大きな石の上に駆け上ってみたりしていました。メーメーと鳴くのもご愛敬です。
食事が終わった後、玉さんの家の行ってお茶を飲みながら、その山羊談義となりました。「山羊の飼い方」なる本も備えていましたが、このような本も5,6冊は出ているそうです。
先ず、性質として高いところに登りたがるのですが、これは臆病で遠くを見て外敵が来ないかを確かめたいということのようです。また、山羊は嗅覚より視覚が良いとのことで、何でも見て確かめるようです。また、相当バカなこともあって、良く見えないビニールなどを食べて死ぬことが多いようです。また、毒草も見分けられないので、それを食べて死ぬこともあるようです。
やはり自由を求めてオオカミに食われた「スガンさんの山羊」のことを思い出しますね。
2012年8月28日火曜日
引き続き
一昨日の16日にトム・ハール展が終わり、片づけ、打ち上げをし、その後、夏の終わりの音楽祭で、江戸原ペンションのジャズ・コンサート。昨日はゼミの仲間で追分の別荘にやってきた友達が星野まで来たからとうちに寄ってくれたので、お隣さんも呼んでお茶の会。
その友達は大学の先生をやっているのですが、どうも教授になったのはいいが、理事長、学長と大学の生き残りのための方策を考える立場になったらしいのです。研究もろくにできない忙しさで先の見通しが立たないようです。彼女はこの環境から抜け出せないと研究者として確立できないので、自由な精神を忘れないようにと偉そうに忠告しました。
天皇、皇后がささやかな夏休み、軽井沢から草津に向かう道路を警備する警察官です。午前中に移動されたようで、ヘリコプターが飛び回っていました。
2012年8月25日土曜日
積乱雲そして夕焼け
午後2時頃にはあらゆる方向に積乱雲が発生、今日は雨が降るかと思いました。しかし、軽井沢国際音楽祭のコンサートが終わった午後6時、外に出てみると浅間山のシルエットに夕焼けになっていました。これで雨はありません。
いつも混んでいる軽井沢駅近くの鉄板焼きのニシハタに行ってみると、馴染みの店のせいか、普段は使わない奥のカウンターを空けてくれました。ここで、私は生ビールを飲んで、ハンバーグを奥さんはキャベツ巻きを食べました。
このキャベツ巻きは中身が非常に詰まっている特製で、その作り方についておやじさんにいろいろ聞いてみました。やはり10個を一度にいれる大鍋でゆっくり火が回るまで煮ることだそうで、やはり、自宅で作ることが出来ないところがポイントです。食べに来る甲斐があります。
2012年8月23日木曜日
美女軍団コンサート
昨夜、近くの江戸原ペンションの音楽室、クリエイティブ・コンプレックスで、学芸大学と尚美学園の大学生のクラリネット・コンサートがあった。両大学でクラリネットを教えている先生が江戸原ペンションで恒例の夏の合宿の仕上げのコンサートです。
先生の話のように別に女子大学でもないのに、専攻の男子の学生は絶滅危惧種になっているほど少ないらしく、今回も合宿に参加しているのはイケメンの4年生一人。
この先生の方針でしょう。音楽は楽しくやらなければ意味がない、どんな種類の音楽でも良い音楽なら弾いてしまおうということで、演歌からクラシックまで自由自在の演奏。先生に編曲の力も必要とさせれるのですからやる方は大変でしょう。また、クラリネットを吹くだけではなく、歌も歌い、踊りも踊るという楽しいコンサート。
お客さんの1才半になるという娘さんがのりにのって手拍子と踊りで会場を大いに盛り上げてくれました。
その後、家に戻って、となりの奥さんを誘って、玉村ワインの白、赤をボトル2本空けてしまいました。
2012年8月22日水曜日
音楽家の新世界
昨日、長い知り合いの尚美学園でクラリネットを教えている田中さんが学生を引き連れて軽井沢の観光会館でミニ・コンサートをやりました。しかし、町には人が溢れているのに、会場で聴きに来た人はせいぜい15人程度で、それも1時間弱の演奏時間なのに、それすらゆっくり楽しむことができずに帰っていきます。
演奏終了後、その先生と話しました。クラシック音楽を聴く聴衆がどんどんいなくなる。彼もN響のコンサートに行って驚いたそうです。ほとんどの聴衆が高齢者、杖をついたり、酸素吸入器をつけた人達がやってくるのです。
彼は聴衆を作る努力をするのを半ばあきらめて、音楽をする人達が自活するためのシステムを作ることを考え始めているといいます。それは自分達で小規模な風力発電を作って売電してファンドを作っていこうというものです。もう少し詳しいことを聞かないとわかりませんが、音楽家の新しい世界が開けるかも知れません。
2012年8月19日日曜日
塩沢湖の花火
花火の写真はそのものを撮るとどこの花火かいつの花火かもわかりません。写真の上手な事務局長の先生が浴衣姿の子供たちや周りの景色を一緒に撮っても、これが隅田川か多摩川か、はたまた長岡、大曲といったものかも、解説がついて、なるほどと思うものです。
この写真などは軽井沢の塩沢湖の花火ですが、近くで見られるので迫力があってそれはそれで大変楽しいものです。軽井沢は3箇所で手軽に毎日のようにやっています。そうなると「川開き」という肩書きがほしくなりますね。
子供の頃、親に連れられて隅田川の川開きに行ったときは、先ず料亭にあがって浴衣に着替え、その料亭の確保している桟敷に行って、花火をみた記憶があって、これはやはり情緒があっていいものです。
昨日はお盆休み後半のスタートでしたが、朝7時のバスで町に出て朝食を町のパン屋で済ませ、フランス人率いる早稻田の建築の学生にレイモンドの建築を見せ、お昼を食べる暇がないので駅近くの馴染みのカフェにサンドイッチを作っておいて貰って、信濃鉄道に飛び乗って一旦家に戻り、隣りと近くの別荘に来ている2組の先生とオーラルヒストリーの打ち合わせをし、それが終わって、またタクシーを呼んで、塩沢湖に行って、午前中のフランス人の先生と早稻田の学生と南山大学の職員と合流してガーデンパーティつきの花火大会。町長を呼び出して一緒に花火を見ることに。
そしてそのフランス人の友達を連れて、家に戻ってレイモンドが葉山の別荘で付き合っていた現在90才のイギリス人の話をききました。
2012年8月16日木曜日
ビラデストの夕食
昨日は山から下りる車は大渋滞、近くでまた事故が1件、軽井沢の救急車が出払って一昨日は御代田からきたが、昨日は佐久から出動。そんな中、歩いて中軽井沢の駅に行きました。麓の方になるに従って気温と湿気が高くなって汗をかいてしまいます。途中でハルニレの和菓子屋に寄って、玉さんへのおみやげを買って、駅前通の印章店で朱肉も買いました。なにせお客がいないのか、店をやっているのかやっていないかの状態で、こちらで店の中を探しておかみさんに
「これいくら」と聞く有様です。おかみさんに領収書を頼んだのですが、「この頃字が出てこなくて」と「洋風館」と
書いてくれたのを「陽風館」に直してもらいました。それでも字は大変上手でしたのでほめてあげました。
さて、8月15日、ビラデストの夕食です。玉さんの夫人に8人分の席を無理に頼んでの会食です。4組の夫婦、われわれ以外はすべて大学教授夫妻。昨日のメニューの作り方が実に上手く出来ていて、前菜と主菜のチョイスがあるのですが、結局、魚の前菜と信州牛の主催、しかも信州牛は1000円増しをとらざるを得ないようになっています。玉さんもやってきて、われながらこの陰謀メニューに大笑いでした。
ビラデストに4時頃着いて玉さんにシードルを飲ませてもらいながら談笑していたとき、かなりひどい雨になりましたが、6時頃に食事とするときには雨があがってこのような情景になりました。
2012年8月13日月曜日
夏のひる談義
隣の先生の所に来ている東大の大学院生をうちに呼んでコーヒーを飲みながら3時間ほど話した。20代だが、すでに本も2冊出している気鋭の政治学者である。彼が出した本(2011年)のテーマが60年代という。つまり60年代安保から話は始まっている。
われわれ社会学のクラスで毎年出しているクラス雑誌の9号と10号(2004年、5年)で60年安保についてクラスメイトのアンケートをとったので、それを引っ張り出して彼に見せた。あのアンケートをやってからもう8年経っている。
彼がデモの後、脱げた靴が山となっていたというのは本当ですか、その状況が飲み込めないらしく聞いてきたが、その
話もアンケートに出てくる。今は故郷の札幌に帰っている男だが「樺さんの時だったと思う。国会前で隊列の後方に居たら確か前のほうで女の子が死んだ、と聞いたように思うから、道に靴なんか散乱していて夜中まで騒いだ。電車もなくなった」と書いている。
この8年前にやった「60年安保アンケート」はもう立派な歴史資料になって、少壮の政治学者の資料になるということだ。なにかAgoraを出していて良かったという気持ちがしてきた。
われわれ社会学のクラスで毎年出しているクラス雑誌の9号と10号(2004年、5年)で60年安保についてクラスメイトのアンケートをとったので、それを引っ張り出して彼に見せた。あのアンケートをやってからもう8年経っている。
彼がデモの後、脱げた靴が山となっていたというのは本当ですか、その状況が飲み込めないらしく聞いてきたが、その
話もアンケートに出てくる。今は故郷の札幌に帰っている男だが「樺さんの時だったと思う。国会前で隊列の後方に居たら確か前のほうで女の子が死んだ、と聞いたように思うから、道に靴なんか散乱していて夜中まで騒いだ。電車もなくなった」と書いている。
この8年前にやった「60年安保アンケート」はもう立派な歴史資料になって、少壮の政治学者の資料になるということだ。なにかAgoraを出していて良かったという気持ちがしてきた。
2012年8月8日水曜日
2012年8月7日火曜日
詩画展の次は写真展
数年前、軽井沢で知り合いになったハワイ在住の写真家、カメラマンではなくフォトグラファーのトム・ハール、Tom Haarが今日から26日まで軽井沢銀座のど真ん中の観光会館で写真展をやることになりました。3年間準備しての展覧会です。タイトルは「夢の風景・軽井沢・」です。彼は東京で生まれ、戦争中3年は両親、兄弟で軽井沢に住んでいました。子供のときに軽井沢で育ったのでこの町に対する愛情は人一倍です。
題材は総て軽井沢で撮った写真をモノクロームで夢の風景として抽象化しています。軽井沢への思いが静かに表現されています。
軽井沢ナショナルトラスト主催ということもあって、昨日、展示の手伝いをメンバーの何人かで行いました。軽井沢観光会館の展示室はなんといっても専門のギャラリーではないので、本職の東京の美術館のプロである仲間の奥さんが手伝ってくれて、どうやらトムが納得のいくように出来ました。
題材は総て軽井沢で撮った写真をモノクロームで夢の風景として抽象化しています。軽井沢への思いが静かに表現されています。
軽井沢ナショナルトラスト主催ということもあって、昨日、展示の手伝いをメンバーの何人かで行いました。軽井沢観光会館の展示室はなんといっても専門のギャラリーではないので、本職の東京の美術館のプロである仲間の奥さんが手伝ってくれて、どうやらトムが納得のいくように出来ました。
2012年8月6日月曜日
信濃追分 油屋プロジェクト始動
昨日は軽井沢も太陽の日差しが強く、紫外線が最高度に出たようで、日焼けしてしまいました。今朝は今9時過ぎですが久しぶりに雨が降っています。気温も20度少しでかなり涼しい感じです。
昨日は午前中、年1回の慶応の医学部の同級生が中心に軽井沢でテニスをするドクターズテニスの会があり、それに参加して、午後自転車で戻って家の近くで内村鑑三さんのお孫さんにばったり、そこで長い立ち話をしました。その後、友達夫妻が孫を連れてやってきて、お喋りの孫と遊び、その後、彼らと夕食を焼き鳥屋で食べました。
一昨日、追分に行って、油屋プロジェ口の進行状況を見てきましたが、順調な仕上がりでお客さんも結構来ていて安心しました。古本市もこの一週間それなりの成果があったと思われます。猫町カフェで一休みして、総ての部屋を見てまわりました。丁度、友達夫妻も居合わせて盛り上がりました。
昨日は午前中、年1回の慶応の医学部の同級生が中心に軽井沢でテニスをするドクターズテニスの会があり、それに参加して、午後自転車で戻って家の近くで内村鑑三さんのお孫さんにばったり、そこで長い立ち話をしました。その後、友達夫妻が孫を連れてやってきて、お喋りの孫と遊び、その後、彼らと夕食を焼き鳥屋で食べました。
一昨日、追分に行って、油屋プロジェ口の進行状況を見てきましたが、順調な仕上がりでお客さんも結構来ていて安心しました。古本市もこの一週間それなりの成果があったと思われます。猫町カフェで一休みして、総ての部屋を見てまわりました。丁度、友達夫妻も居合わせて盛り上がりました。
2012年8月2日木曜日
8月
例年、軽井沢を避暑地として”発見”してくれたカナダ人宣教師、アレクサンダー・クロフト・ショーを記念する式典が、ショー記念礼拝堂となっている教会で行われます。
その日の朝、ショーの胸像をきれいにしようとこの教会の司祭がバケツの水で洗っているところです。
海外から日本に布教のために派遣された宣教師達も高温多湿の東京や大阪で夏を過ごすことは大変だったようで、夏を休養することが認められていたようです。彼らの本国である欧米からアジア、アフリカ、中南米という地域に派遣されるということは大変勇気のいることとされていた時代でもありました。
また、日本では現在でも全く定着していない”避暑”という生活様式もパンやジャムやソーセージなどとともに、こうした宣教師達によってもたらされたもので、軽井沢はその代名詞になっているのです。
昨日も、このショー祭のあと、古い時代の軽井沢を知っている両親はハンガリー生まれのアメリカ人と1時間ほど話したのですが、”避暑”を当たり前だと思っている彼らの生活感はかなり違います。これについては私の別のブログ「迷・隠居志願」で語りましょう。
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