2009年9月18日金曜日

「希望」がいらない「幸福」な2人の秀才



 午前中の理事会の後、中華麺を食べたところ量が多くてお腹が一杯になりました。散歩したかったのですが、日差しが強く暑かったので、事務所に戻ってお昼休みをすることにしました。話はテレビで見た東大の先生たちが「希望学」、「希望学会」を立ち上げているという話になりました。

 われわれにとって「希望」とは何か、第一、自分たちに「希望」があるのかと言っているうちに、私の仕事仲間は特段希望はなさそうだが問題なく幸せに暮らしていると気がつきました。彼は非常に頭がいいので、これまで仕事は楽々とこなし、逆に自分の能力を超えるものを鋭く見分け、それはやっても仕方がないと割り切るのです。手元に楽しいことを引きつけてカメラ、自転車、車などで遊び毎日を過ごします。このような人生を送るもう一人の友達がいることにも気がつきました。彼も頭がすごく良いので、仕事は楽々こなし、大抵の世間のことはばかばかしくなるらしく、一刀両断に切り捨てます。そして、iPhoneなどのおもちゃに凝るのです。2人とも大変親切で、自分たちのおもちゃについて詳しく教えてくれ、彼等の幸せを分けてくれます。

 希望はないが幸福と、希望はあるが不幸と、民主党政権は明らかに前者を選択しています。しかし、多くの日本人大衆は私の友達のように頭がよくないのです。自分の能力、欲望をコントロールできないのです。ドイツの友達がミュンヘンからお土産に持ってきてくれた持ってきてくれたこのチョコレートのチェス、白は幸福、黒(ブラウン)は希望のせめぎ合いです。ミュンヘンはナチ誕生の地です。ドイツ人に「希望」を与えて戦場に駆り立てたヒットラーを忘れることは出来ません。

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