2010年12月30日木曜日
オオカミの護符
第110回吉武ゼミは「オオカミの護符」というドキュメンタリー映画を見ました。オオカミ信仰は現在も御嶽山の山麓から広がった地域に今も生きています。それは地域のコミュニティが残っていることを示すものです。ただ、画面に登場する人達は高齢者が多く、果たしてこのコミュニティの講の仕組みがいつまで続いていくのかは疑問です。農業に依存する山村の生活がこの社会的な仕組みを必要としているのですから、それがなくなればコミュニティは崩壊していくことになります。最初に竹の子を作る農家が出てきますが、実に大変な労力を必要とします。このように手のかかる竹の子の生産がいつまでもつづけられるとは思えません。生きるために必要だから講があり、コミュニティがあり、オオカミ信仰があります。生きるために
必要がなければ、コミュニティの基盤は極めて脆弱なものです。
2010年12月24日金曜日
ホワイトクリスマス
2010年12月21日火曜日
Agora手渡し会
今年も無事Agoraが出来上がり、クラスの仲間に渡す会が開かれた。編集者の1人が自宅を開放してくれて今回は8人ほど集まった。文京区の六義園のはす向かいという閑静な住宅街にある。少し遅れて着いたら、仲間の1人がかっぽれを踊るという趣向になっていた。派手な浴衣をきていなせな格好でおはやしに合わせて踊る。なんでも、かっぽれは29種類もあって、やってみると奥が深いらしい。男形、女形と2曲踊ってくれた。そういえば、今年亡くなったわれわれの先生と先生が教えていた東邦大学医学部の仲間で幇間を呼んでかっぽれを見ることになっていたのだが、遂にそのチャンスを失った。
踊りを堪能した後はビール、ワインを空けてわいわい話しているうちに次号のテーマが2つ決まった。ひとつはお客のクレーム処理について、デパートでクレーム処理の部署にいたかっぽれ氏、消費者センターにいた女史、新聞社の整理部で読者の問いあわせに答えていた読売の記者の3人が書くことに。もう一つは「自分はどうやってたばこをやめたか」という話。書きやすいテーマで、それがいいと編集長も言ってくれた。
2010年12月13日月曜日
荷台
2010年12月10日金曜日
雪道と自転車
2010年12月7日火曜日
国連大学前
2010年12月5日日曜日
とうとう売りに出る
うちから歩いて5分ほどのところにある1999年に94才かで亡くなった洋画家の三岸節子さんの別荘が遂に売りに出ました。彼女が亡くなってから使われた形跡がほとんどなく、保存される見込みはないと見ていましたがやはり、というか遂に売却ということになったようです。ご家族ももう高齢でしょうし、多分関西の方にお住まいとか聞いていましたから、軽井沢に来られることは難しいことだったと思います。晩年も精力的に制作されいて、当時、話題になってテレビでも放映されたことも何度かありました。この別荘のたてものはなかなかきれいでもしかするとあめりか屋建築ではないかとうわさされていました。軽井沢のページから三岸節子が消えていくのは淋しいことです。
2010年11月30日火曜日
初冬の軽井沢
朝は零下になりますが、それでも晴れればぴりっとして気持ちは爽快です。この日は東京駅前の新丸ビルで軽井沢から進出してきたそば屋川上庵のSAWAMERAブランドで飲んでいて、コートを忘れてしまいました。軽井沢駅についてびっくり。信濃鉄道に飛び乗ってなんとか中軽井沢へ、またタクシーに飛び乗って身体が冷え切る前に家に着きました。翌日は朝から薪割り、日曜日でゆっくりしたかったのですが、このところ忙しくて、薪割りが出来ず、冬の準備が遅れていたのです。お昼過ぎまで掛かってかなり割りました。今日はまだ、腕が痛んでいます。この日の夕方に知り合いの先生が江戸原ペンションにやってきたので、彼を囲んで、旧軽のロータリーのところにある、これも川上庵の酢重正之ブランドで和食、ラングドックのメルローが良く合って、うまいこと。3時間以上話し込んで、江戸原ペンションのご主人に迎えに来て貰って無事帰宅。北斗七星の見える夜となりました。
2010年11月25日木曜日
おたるピロシキ
小樽駅に着いてそのまま港に向かって本通りを下っていきます。駅から港に停泊している大型フェリーがビルのように見えます。これはヘルシンキの港でも経験した景色です。この本通りを歩いていると、何と幟がはためいていて「おたるピロシキ」と書いてあります。ピロシキ研究家の松岡としてはここに寄って食べないわけには行きません。ここはロシアに近いし、ロシア人も来るのでさぞ本格的なピロシキが食べられるかと思いきや、店構えからしてパン屋のできそこないのような素人くさい店です。篭に盛られている「おたるピロシキ」を一つ買って外に出ました。この本通りは近年整備されひろびろとしてよいのですが、初冬の小樽で人が少ないと淋しいのです。食パンの耳を揚げパンにつけた、教育テレビに出てくる小錦のパジャマのような皮に中身ははるさめや挽肉ですが、中華ともつかず、和食の炒めもののようでもない、なんとも形容のし難い味付けのもので、ロシア人も驚くピロシキでした。いつも行く鮨屋で口直しをして、今年も小樽市民会議の作る来年の「おたるカレンダー」を知り合いのイタリアンレストランのトレノで買って札幌に戻りました。
2010年11月11日木曜日
軽井沢高原の日々(9)
終戦までの日々を綴った第1部の最後に、この軽井沢、千ヶ滝の別荘のいきさつを書いておかなければならない。これはもちろん私は直接知らない話で、ほとんど母から聞いた話である。それは大正の終わりか昭和の初めで、西武の創始、堤康次郎がこの地を購入して別荘地販売を始めてすぐの話である。堤康次郎の兄貴分でもあった永井柳太郎からすべてがスタートする。彼は大隈重信に認められオックスフォードで学んで早稲田大学の教授になり、その後、逓信大臣などを勤めるのだが、彼自身も日本の女性の参政権の問題に取り組んだが、彼の夫人の次代さんは女性の地位向上のために活動した女性だった。私の祖母は次代さんの女子学院時代の同級生で活動に協力していた。その縁で誘われて堤康次郎が始めた別荘を購入したものと思われる。私の記憶では活動家の女性の集まりに祖母に連れられて何度か行ったが、それが戦前か戦後かもはっきりしない。ある日の午後、こうした集まりに行っている時に近くの家が火事になったことがあった。しかし、その席の誰もが動こうともせずに話し続けていた。わたしもただその家の茅葺きの屋根が焼け落ちるのをぼーっと見ていただけだった。永井さんの家はうちから徒歩で30分程登ったグリーンホテルという、やはり西武が建てたホテルで加藤周一の小説「ある晴れた日に」の舞台にもなったホテルのそばだった。祖母や母に連れられて行ったことはあるが、次代さんや祖母が亡くなった後は付き合いが少なくなっていた。永井柳太郎、次代さんの息子が永井道雄だが、娘さんの息子が、つまり永井柳太郎、次代の孫,永井道雄の甥が一時衆議院議員ものなった本職は農学博士の鮫島宗明であり、彼と私は別の縁で友達になって三代にわたる付き合いになった。
2010年11月8日月曜日
久しぶりの早稲田祭
2010年10月31日日曜日
秋雨つづく
昨日、台風をかわして軽井沢に着いてから雨がやみません。昨日大阪のホテルを朝5時半に出て軽井沢の家に着いたのが11時20分、それでも秋の黄金の景色が広がっています。今朝は10時前に出てヴィラデストでお昼を挟んで打ち合わせが済んで戻ったところ夕方の6時過ぎ。一日掛かりの大打合会となりました。なかなか難しい内容で、このブログにも書けない微妙な話ですが、とにかくこちら3人と玉さんとで対応するということで話はまとまりました。このお昼に出た豚の一切れがものすごい大きくしかもやわらかくジューシー。なんとこれは普通の豚においしい料理に使う食材の切れ端などを粉砕して餌に使っているというのです。これだけの大きな一切れどのくらいあるでしょうか。200はあるでしょうか。これまで残した人を見たことがないと玉さんは言います。
2010年10月27日水曜日
謎の西洋館
これは現在捜索中の案件で常磐松小学校を訪ねたときに、学校でもどうしてもわからないという戦前と思われる壮麗な西洋館の写真です。もちろん、渋谷から靑山にかけての一帯に存在していたと思われる建物です。これほど大きいものならわかる筈ですが、不思議です。このブログを読んで頂いている方のうちのどなたかに何かご存知のことがあれば教えて頂きたいと思います。
戦前の渋谷は東京の郊外といってもよいのですが、近くを通る靑山通りから明治通りをつなぐ八幡通も当時としてはかなりしっかりした通りで、現在よりも格式が高いように見える写真が残っています。とすると、この建物も八幡通に面していたのかも知れません。この小学校の近くには御料乳牛場があったりします。農大もあって元祖大根踊りは靑山でやったということです。
2010年10月25日月曜日
軽井沢高原の日々(8)
話を戦後の軽井沢の夏に進める前に、何故あのような昔、千ヶ滝に別荘をもつことになったのかを書いておく必要があるだろう。もちろん、私の生まれる前の話だから正確なことはわからない、祖母や母から聞いた話から類推したものである。昭和の初めの頃、先代の堤康次郎が軽井沢の西にある当時沓掛といった駅から北にある山林に目を着けて、そこを広く買収し別荘地を開発し始めて間もない頃である。その堤康次郎の公私共に兄貴分で後に親戚にもなった永井柳太郎がいた。この人は早大からオックスフォード大学を経て早大教授になり、後に代議士になって逓信大臣や鉄道大臣などを勤めた。彼は大正デモクラシーの一翼を担って婦人参政権の獲得などに力を尽くした。当然、堤康次郎は永井柳太郎に千ヶ滝の別荘地を世話したのであろう。そして、永井柳太郎の次代夫人と私の祖母は女子学院の同級生の仲であった。また、次代夫人は婦人運動の草分けの一人として日本婦人矯風会で活躍、祖母もその仲間になっていた。こうした関係があって、祖母は軽井沢で次代夫人と婦人問題を語り合う必要もあって別荘を購入したと思われる。ただし、祖母が自ら別荘地を買い、別荘を建てたのではなく、既に親戚が建てていたものを譲り受けたという話もあるので、その点ははっきりしない。ただ、祖母はこの関係の夫人達の集まりに頻繁に出かけ、ときどきは私もお伴させられた。そのことを次に話そう。
2010年10月19日火曜日
ボルシチ
滅多にない気分ですが、ビーフシチューが食べたくなったので、事務局長に相談すると、それならと渋谷東急プラザの9階にあるロシア料理「ロゴスキー」に連れて行ってくれました。ビーフシチューではなくロシアシチューというべきボルシチでした。それではとピロシキとボルシチのセット、普段より300円ほど高い1,360円、ブログネタにすれば安いよと笑いました。そういえば、ロシア料理店は新しい店が出来た話をききません。この店も1950年代からのやっている、つまりソ連時代からの店で、その頃から勤めているのではないかと思うおばさんウエイトレスが民族衣装を着て出てきてびっくり。ロシア娘ではなくロシアおばさんも1人いました。それでもお客がたくさん入っていてホッとしました。ボルシチは温かいウクライナ風の豆シチューにして正解でした。
2010年10月18日月曜日
高原の日々(7)さらば千ヶ滝
12月に入って寒さが厳しくなり、沓掛の家も所有者がやってきて使うことになったらしく、一旦千ヶ滝に戻った私達家族3人も追われるように山を下りることになった。もちろん私は小さくてそのいきさつは全くわからず、ただ、母にすがっていただけだった。この時期から母の妹の叔母とその連れ合いとの間がうまくいかなくなったようだ。叔母の連れ合いはどういうわけか、千ヶ滝に一緒に来ていて、そのまま一緒にいたので、祖母に取り入って主人顔をしていたようだ。父が東京で働いているので母は孤立して結局皆のいうなりになっていたようだ。その頃の最大の働き手は女中さんと呼ばれたお手伝いさんで、家事に馴れない母は女中さんの助けがなければ動けなかった。とにかく千ヶ滝は寒くていられず、ある日の夕方全員家を後にしてその夜は星野温泉に泊まることになった。凍りついた坂道をやっとの思いで星野にたどりついたのだった。日が直ぐに暮れて暗闇になり普通なら30分も掛からないはずなのにずいぶん時間が掛かったような気がするが、これも何もわからない子供の頃のことであった。そして翌日、国鉄、沓掛駅から満員の列車に乗ったのだった。蒸気機関車がホームに入ってくる姿が強く記憶に残っている。その時は蒸気機関車の前にも人が乗っていたようだ。それからどこに行くのか心細い気持ちだったことを思い出す。(写真は今は亡き星野温泉旅館)
2010年10月10日日曜日
旧朝吹山荘移築展
2010年10月8日金曜日
高原の日々(6)つかの間の兜山
リックサックにわずかな食糧を持って来てくれた父が当時の沓掛(中軽井沢)から東京に戻るときデッキから手を振るのが見えた信越線の線路に沿った国道わき、私は母に手を引かれてここから父に向かって手を振った。この電線はなく蒸気機関車に引かれた暗いアメ色の客車が通り過ぎて行く。ときには子供が手を振っているのを見つけた機関士が汽笛を鳴らしてくれた。どういうわけか千ヶ滝の家から気がついたときには沓掛に近い、現在の軽井沢病院の奥にある兜山別荘地にある小さな家に住むことになった。それは誰か親戚の別荘で、祖母や叔母たちと一緒にいるのを嫌った父のせいか、千ヶ滝に祖母が収容する麻布のご近所のひとたちが増えたからかも知れない。母と私と未だ乳飲み子だった弟と3人だった。戦争が終わり高原の早い秋がやってきた。8月が後半なり、ほとんど戦争が終わったとたんに秋になったという感じだった。子供の私にとって人生でもっとも静かな日々だったような気がする。買い出しというか、赤ん坊の弟のミルクとなにがしかの食糧を求めて母は毎日朝から2里の道を歩いて旧軽井沢の町の方へ出かけていった。ミルクは仲人だった東大の獣医学の先生の関係で山羊を飼う人がいて、その人のところへ山羊のお乳をもらいに行っていたらしい。私は弟と留守番だったが弟は異常なほど静かにしていてくれて、ほとんど泣いたりさわいだりしなかった。私は何時間も何時間も寝ている弟と部屋の中で一人で遊んでいた。小学校に行くまで親が面倒を見てくれたことがほとんどなかった。冑山は秋にはすべてが色づいて、ある日3人で林の中を散歩して、母は赤く色づいた木の葉を集めていると、地元のおばさんらしい人に、それはウルシの葉だからかぶれますよと注意され、あわてて捨てたことがあった。また、ある夜、この家の持ち主らしい男の人たちがやってきて、白いご飯にバターを乗せて食べさせてくれた。しかし、これがこの家にいた最後の日だった。もう12月で冬になっていたのだ。私たちは千ヶ滝の家に戻ったが、とても寒くていられず、ここも引き揚げることになった。
2010年10月4日月曜日
パブリック・フット・パス
軽井沢でパブリック・フット・パスを作ろうという試みが筑波大の先生のイニシアチブで行われ、その調査のために半日、歩きました。
イギリスでは人の通行に便利なために私道などを公共で使えるようにしていて、法的にも整備されているのですが、日本では何もありません。林の中の道を徒歩で通行するためにルートを確保するという考えですが、なかなか簡単ではありません。
とにかく、日本では「パブリック」という概念が明治に国家や行政のものとして「公」にされてしまい、そのため戦後、反動で逆に「私」の権利確保が行き過ぎパブリックを作りにくい状況になっています。パブリック・フット・パスはその意味で日本社会に一石を投じる者だと思います。むしろ、江戸時代の入会権のようなもののほうがパブリックの概念に近いと思いますので、その辺も研究課題です。
2010年10月1日金曜日
高原の日々(5)終戦の日
終戦の日、もちろん子供の私にはわけもわからず、隣の家に連れて行かれた。これまでその家にいったことはなかった。畳の部屋は明るくなく、何人かの大人が向こうを向いて座っていた。私も同じ方向に向かって座るとしばらくして、シャーシャーという音が前の方から聞こえてきた。この部屋の前にタンスがあってその上にラジオが乗っているのがわかった。やがで、シャーシャーという音にかき消されて良く聞こえないが甲高い声がラジオから流れてきた。しかし、何を言っているのかは私にわかるはずもなかった。そして皆立ち上がり無言のままその部屋を出て外に向かった。その時は祖母が私の手を引いていたようだった。道に出ると祖母は空を見上げた。私も一緒に空を見上げた。その時に祖母が何か言ったか、言わなかったかもわからない。ずっと後になって空を見上げたのはもうB29が飛んでくることはないと、これで安心して空を眺めることが出来ると言ったとか、話は作られていったような気がする。ただ、この昭和20年8月15日は軽井沢も快晴で空がきれいだったことはなんとなく記憶に残っている。これは加藤周一が「ある晴れた日に」である晴れた日に戦争が始まり、ある晴れた日に戦争が終わったと書いたように、彼は終戦の日を軽井沢・追分で迎えたのだ。それから千ヶ滝の祖母の家で何がどうなったのか、なにも覚えていない。記憶はそこから急に山を下り沓掛(中軽井沢)の知り合いの別荘に移っていく。
2010年9月25日土曜日
カラ松のデザイン
2010年9月22日水曜日
高原の日々(4)終戦まで
とにかく、ここに来ると空襲の恐怖はなくなり、皆ほっとしていた。東京では灯火管制があったが、千ヶ滝では部屋の電灯の傘に黒い布をかけることもなく、サイレンの音がすることもなく、夜はまったくシーンとしていた。今、思っても夜のあれほどの静けさは二度とないだろう。あまり明るくない裸電球の下で寝る前に祖母も母も私も本を読んだ。そのページをめくる音だけが、その静けさを破るのだった。何年か後には蛾の羽音がしたり、虫の音が耳につくようになったが、あの時には全く音がしなかった。そのときに読んだ本のタイトルを思い出せないが、世界の名作だったことは間違いない。本が好きになったのはその時からである。乳飲み子だった弟は隣の部屋の籐のベッドに寝かされていたが、ぐずることもなくいつも静かに寝ていて皆から静かな赤ん坊ですねと言われていた。ただ、一度だけそれこそ火のつくように泣き出したことがあった。皆、驚いてベッドの部屋に駆け寄ったところ、弟は血まみれになって泣いていた。なんと、ネズミが手の指をかじったのだった。多分、私も驚いて泣いただろうと思う。それから何が起こったのかは全くわからない。医者など近くにいるわけもなく、戦争中の田舎で病院に行くことが出来るわけもなく、多分、看護婦の心得があった母が消毒をし、血を止めてなんとか急場をしのいだのだろう。ネズミが媒介する病気は潜伏期間が長いものがあるで、その時は非常に心配したらしい。それを除けば皆焼け出された身の上で、皆がなにかと顔をつき合わせて話をしていたのを覚えている。雰囲気は人が多かったこともあって親密なものであったようだ。本当は毎日の食事をどう確保するか大変だったのだろうが、子供の私はおだやかに過ごしあの終戦の日を迎えた。
2010年9月19日日曜日
お城のような
2010年9月13日月曜日
高原の日々(3)
おそらく1943年の千ヶ滝別荘地のまだかすかに平和が残っていて、祖母が資産家の山室家の当主で豊かな軽井沢の避暑生活を送っていて、西武千ヶ滝別荘地も千ヶ滝文化村として当時のインテリ層を相手に理想郷をつくりつつあった。残念ながら私にはこの年の記憶は前回書いた以上のものはない。その後の記憶は1945年春の疎開になる。この年の3月10日の大空襲は麻布の家にいて、私は防空ズキンを被って2回の窓から真っ赤になった空をながめていた。なにせこの家の前は麻布連隊、歩兵第三連隊の駐屯地であった。その後、防衛庁になり現在は東京ミッドタウンになっているところだ。この空襲では風向きのせいか翌日の朝まで燃えかすや灰が降ってきたが助かった。しかし、時間の問題だということで、祖母だけが残ってあとの家族は軽井沢に疎開することになった。そして5月20日の東京大空襲によって麻布の家は灰燼に帰し、祖母とお手伝いさんが軽井沢にやってきた。お手伝いさんが背中におおきなリュックをしょって、「ついに、焼け出されました」と言って千ヶ滝の家の庭に現れた姿をはっきりと覚えている。「朝になって防空壕から出たらお家がすっかり焼けていました。家財一式、なにもかにも焼けました、あのドイツから直接運んで貰ったピアノが鉄線だけになっていました。焼け残った食器、茶碗や皿をかつげるだけかついできました」祖母は後から麻布の近所だった豆腐屋やだれかを連れてきたようだった。彼らもしばらく同居することになった。そこでこの別荘も一杯になったため、母と私と弟と3人は沓掛(今の中軽井沢)に誰かの別荘に移ることになった。父は農林省の役人で食糧の担当だったため、兵隊にもとられず、役所に詰めっきりで、終戦後になるまで軽井沢には現れなかった。
2010年9月8日水曜日
おじいちゃん・二代目星野嘉助
いま人気の星野リゾート社長、星野佳路と女優の矢代朝子の対談が軽井沢高原文庫の中庭で開かれた。最近は経営の話でテレビなどのマスコミに出現するのがほとんどで、おじいちゃんについて話すというので、集まった人数は思ったより少ないようでした。しかし、幼なじみが対談すると一般の印象と違って彼の良い面が出て、成功している経営の底辺にあるものがわかるものです。貴重な話が多く、様々な面で参考になりました。もっとも、軽井沢の将来については、後で彼らと6人だけで打ち上げをやったときに更に有益な話が聞けました。それについては少しこなしてから書きましょう。Light from Hayama のブログの方で書きましょうか。
2010年9月3日金曜日
高原の日々(2)
軽井沢の最初の記憶が何かがはっきりしない。今は中軽井沢といっている沓掛駅前のバスの待合所、バスがたくさん停まっていてごったがえしていたのを覚えている、戦争前の国鉄信越線沓掛駅の最盛期だった。駅前広場に立派なバスの待合所があり、軽井沢高原バス待合所と大きく書かれていたように思う。そこにバスの関係者も、どのお客にも馴染みのしっかりした体格のおばさんがいて、バスの切符も彼女から買うようになっていた、と思う。戦争が終わってにぎわった沓掛の駅前もすっかりさびれても、この待合所とおばさんが残っていて、しばらくいたと思うので、記憶は戦前、戦後とダブっているかも知れない。戦前の夏には祖母と母は一緒に来たことは確かだろうが、私自身は誰に連れられて来たかは定かではない。その頃だけは私も本当にお坊ちゃんで私の世話をしてくれるのは母ではなく、お手伝いさんだったし、それも何人もいて、名前も覚えるような状況ではなかった。戦争でお手伝いさんのほとんどが故郷に帰っていなくなり、戦後まで祖母の家に一人残ってくれた政恵さんという人だけを覚えている。戦前のもう一つ確実な記憶は大きな木造の、しかも今で言うログハウスだが、丸太の皮が剝かれていないまま使われていた「百貨店」があった。そこに連れて行って貰って花火だか何かを買ってもらった。戦後に建物の残骸は残っていたが、いつの間にかなくなっていた。これはもしかすると西武百貨店の始まりの頃だったのかも知れない。その場所はうちの別荘から千ヶ滝通りを渡ったすぐのところにあった。つまり、うちの別荘はこの千ヶ滝別荘地の真ん中で、いまよりずっと便利だった。西武の先代の堤康次郎が精魂込めて開発したモダンな別荘地だったのだ。
2010年9月1日水曜日
大賀ホール
右側が夕方の大賀ホールです。なかなか雰囲気があります。
これまで大賀ホールが出来てから何度もコンサートを聴きに行きましたが、聴衆が10人もいなかったのはさすがに初めてでした。時間前にホールに入ると男の人がピアノをさわっています。
多分、調律だろうと思って見ていました。この時点で客と思われる人は3人、しばらくすると5,6人まとまって入ってきましたので、これから人が来るのだろうと思っていると、その人たちは客席に一旦腰を下ろして、すぐに立ち上がりホールの後ろをまわって、入ってきたドアから出て行ってしまいました。このような5,6人のまとまりが公演中も入ったり出たり2回ほどありました。どうやらホールの見学のようです。こんなことを許すのか。演奏はなかなか、ヤマハのピアノがこれほど華やかな音を出すとは。終演後、あまり気の毒なので楽屋へ行ってなぐさめました。でも、彼はこのホールでこの楽器で満足していました。
2010年8月30日月曜日
高原の日々(1)
加藤周一に「高原好日」という信濃毎日に連載していたものをまとめた本があります。彼が軽井沢で友情を温めた人たちとの交遊の話です。彼が取り上げている人たちはわれわれが誰でも知っている人たちがほとんどですから読んで面白いわけです。例えば彼が旧制一高からの友達である中村真一郎のことを書けば、われわれはなるほど、「高度の知識人の軽井沢での交遊」とは斯くなるものかと読めるわけです。しかし、私の交遊といえば、「それ誰」という友達で、その友達が軽井沢で特別なことでもしなければ読者には通じません。今日も夏の雲をながめながら、何をどのように書けばそれなりの話になるかを考えていました。さしずめ、子供の頃の軽井沢といっても、この千ヶ滝と呼ばれる別荘地の周辺から始めなければならないでしょう。この軽井沢・千ヶ滝、最初の記憶は1945年終戦の前後あたりでしょうか。私たちはここに疎開したのですが、その前にもう少し楽しかったかすかな記憶があります。私は3才だったはずです。4才の夏は私は聖路加病院の別館に預けられていたので、軽井沢に来ていないのではないかと思うからです。千ヶ滝が最も輝いていた時期です。その頃のことを覚えている人には会っていないので、正確なことはないにもわかりませんが、残っている記憶の断片から拾ってみましょう。
2010年8月23日月曜日
少しは秋の気配
2010年8月20日金曜日
蟄居
うちのある千ヶ滝地区は軽井沢から10キロ、中軽井沢から4キロあり、1960年代までは歩いて5分から10分ほどの範囲に八百屋、肉屋(牛乳)、酒屋(新聞も買えた)、米屋、パンやタバコも売っている雑貨屋があり、夏の間、ほとんど町に出ることもなく生活出来ました。そのため昆虫採集のため朝から出動する日を除けば、午前中は宿題をやり、午後はまわりの林や森の中で遊ぶ日課は比較的規則正しいものでした。今は買い物に町に出なければならず、一種、強迫観念にかられて町に出てブログ種を見つけたり、行きつけのカフェなどの場所に行かなければ、誰かに会わなければとついつい思って出かけるようになってしまいました。
昨日は天気もはっきりしないし、特に予定がないと思ってパソコンに向かって書き物をして調子が上がったと思っていたら、3時頃、ドカーンと大音響がして、飛び出してみたら車がガードレールに激突という事故、近所のペンションの人たちなどが皆出てきて、野次馬的にしゃべり合うことになりました。警察がなかなか来ないので、皆、引き上げるタイミングを失って1時間以上現場にいたので、結局、書き物のペースが乱れ、もどると書く気がなくなっていました。自分に蟄居を命じて、昔の夏の軽井沢のペースにいささかでも戻さないと仕事が楽しく進みません。なんとか町に出ないで脳の充実した日々を過ごさなければいけません。
2010年8月16日月曜日
トリノの写真を壁に
2010年8月13日金曜日
Torino発”Eataly"
イタリア、トリノから滞在中の4人に、ドイツからの建築家と日本の仲間をいれて総勢10人で夕食パーティ。
代官山にある“イータリー”(Eat と Italy)を掛けてこの名前のレストラン件、食材の店、バール(簡単な飲み食いの出来るイタリア、スペインにはそこらじゅうにあるスタンド)とが一隅に集まっている楽しいスペース。いろいろな言葉が行き交って、われわれだけが店の閉まるまでいました。もともとこのトリノの友達がトリノで連れて行ってくれて、この店が日本のお前のうちの近くに出来たらしいぞ、とのことでした。それが3年前の秋です。結構人気らしいのですが、イタリアでは高級な店だそうで、普通では買えない食品などが用意されているのです。この代官山近辺はお金持ちが多いのでそれなりの需要があり、高い生ハムなどが売れるのでしょう。うちから歩いて行けるのですが、とても買い物に行けるところではありません。
2010年8月8日日曜日
軽井沢高原文庫の会
2010年8月5日木曜日
大掃除
2010年8月2日月曜日
多忙な軽井沢
2010年7月31日土曜日
夕方の大賀ホール
2010年7月29日木曜日
千ヶ滝郵便局
軽井沢も一日中雨でした。今朝、友達の詩人に送って貰った「NO MORE KILLING」のCDの礼状を書いて、郵便局にもっていきました。近いといっても坂道を降りたり登ったりで時間がかかります。雨でなければ電動アシスト自転車が使えるのですが、仕方がありません。東京から戻ったばかりで毛穴が広がったままで温度調節が出来ず、今朝を起きたら風邪気味で不調です。仕方なく、事務所からのメールなどに対応していますが、これもmacのメーラーが不調で文字化けしているとの連絡です。今晩食事を作るのが面倒ですが、車のない生活で雨となればレストランのあるところへ行くことも出来ません。昨日炊いたご飯の残りを使ってなんとかしなければなりません。気が重いところです。
2010年7月25日日曜日
銀座歩行者天国
2010年7月22日木曜日
レイモンド、河村目呂二、玉村豊男
2010年7月19日月曜日
夏の信濃追分
幼なじみの友達から信濃追分でお昼に会おうという誘いがあり、うちから出かけるとなると、もう朝ご飯を食べたら準備をしなければなりません。車を使える人なら、11時半に出て十分間に合うはずですが、われわれの場合は近くのバス停を10時に出発。中軽井沢駅に10時15分について、11時05分の信濃鉄道に乗ります。4分で信濃追分の駅に着きます。あまり暑いのでタクシーに乗って追分の中心部へ5分です。というわけで11時15分に待ち合わせのそばやに向かうと、友達も夫婦でこちらに向かって歩いてきます。そばやの始まりは11時半です。しばらく待ってミニ天ぷらセット、天丼+そばです。信濃追分駅には追分馬子唄のちょうちんがくっきり夏姿の浅間山をバックにぶらぶらとゆれていました。
2010年7月17日土曜日
梅雨明け
2010年7月13日火曜日
フランスから友達がやってくると
フランス人の友達がやってきて家に泊まるというので、きのうから汗だくの大掃除です。こんなことがないとなかなか片づけもできません。8月にはイタリア人が2組、これでもう一番の掃除ができます。それでもわれわれの掃除は十分ではないのか、一度はキューバ人の奥さんが見かねて「あなたの本を並べ替えていいでしょうか」と言って、本を並べてある棚をすっかりきれいにしてくれたこともあり、また、スリランカのお坊さん2人が泊まったときは、水道局から水が漏れているのではないかという連絡があったほど、水をふんだんに使って家中を掃除してくれました。われながらせいせいして気持ちが良くなりました。今日は涼しいし、一層気分が良いです。
2010年7月10日土曜日
中国関連図書と内山書店
2010年7月7日水曜日
やまぼうし
2010年7月5日月曜日
日本の建築空間と庭園
2010年7月2日金曜日
闘い済んで
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